新開寛山

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京焼~花と鳥と夢 新開寛山(しんかい かんざん)~

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[新開覧山の陶芸]

氏は明治45年(1912年)、三代清風与平を祖父とし、四代を伯父とする京都陶芸界の名門の血を受けて、京都市東山区五条坂に生まれました。祖父の三代清風与平は、はじめ新開晟山(名は晃浦)といい、田能村直人(1814~1907)に入門して絵を学んでいたが、後に二代清風与平(1844~78)について磁器を学び、初代(1805~61)の娘で二代の妹くまと結婚したのち、明治11年二代与平が没後、三代与平となります。四代与平は三代の次男が継ぎ、三男でロクロの名手が寛山の父です。

氏は清風工房の中で磁器づくりの基本から徹底的に仕込まれて育って来たのです。小学校を卒業後、京都市立美術工芸学校に進学の際、父の助言で図案科へ入学。図案を山鹿清華氏、千熊童禄氏に学び、絵画を太田喜二郎(洋画)氏、森守明(日木画)氏に学んだのです。卒業後も竹杖会の柴原希祥氏について日本画を学んでいます。

昭和5年(1930)年、京都市立美術工芸学校を卒業すると、清風工房で磁器のロクロや成形技術等を正確に修業しながら、染付の絵付を正式に学びました。この年の第11回帝展に「太白磁比嚢文飾皿」が初入選し、陶芸家としての第一歩を踏み出したのです。

この頃、河村蜻山(1890~1967)氏主宰の蒼玄社に入会、河村崎山氏の指薄を受けました。昭和9年5代清水六兵衛氏が会長の五条会に入会、清水正太郎(六代清水六兵衛)氏の指導を受けるようになりました。昭手旧7年迄帝展、文展に継続出品しましたが、翌年応召し出兵しました。シベリア抑留をも体験し、昭和22年に復員しましたが、戦時中の強制疎開で清風工房はすでになく、磁器制作の目処もなく、陶器制作で再出を計ったのです。

戦前迄の氏は修業と研修の時代と考えれば、戦後の氏は独立独行の時代であり、開花期と言えるでしょう。磁器の基礎がしっかりあった為、陶器づくりになっても、ロクロ成形、けずり等もきっちりでき、陶器、土ものとしてはやや硬い感しがするのは、氏の戦後の作品の特質になっています。

氏の絵文様、或いは装飾文様の構想は、氏の造形の魅力の中心をなすものであり、半世紀以上にわたる氏自身の精進の積み重ねによって裏付けされています。京都陶芸界の名門に生まれながら、「その伝統に潰されるのではなく、その中から自分なりのものをつくろう」という思いを、学生の頃から持ち続け、学んで来たと言われます。

画家としての修練と優れた眼が感じられ、版画家的な特異な資質と現代的感性に満ち溢れたデザイナーとしての水際だった冴えを感じさせられます。それぞれの作品が律動的、諧謔的、異国的、意匠的でかつ、のびやかで平明な楽しさを持ち合わせながら、味わい深い詩情を湛えています。

氏がいかに画家的資質にとみ、絵画的表現にのめり込んでいるかは、氏が作る陶器の形であり、作り方です。平面性に富んだ皿か円筒形に近い花瓶の制作量が圧倒的に多いのです。

陶芸の魅力とは本来的に窯の中での炎と土との出会いであり、神秘的な造形であると言われますが「炎と土との出会い」をいかに用意し、そして「神秘的な造形」をいかに準備して待つかということは、やはり造形作家として陶芸家の主体性、思想性に係わってくる問題です。

氏は焼成技術や和薬や土の配合について全くの独学自習で日夜精進を重ねて、ガス窯や電気窯と積極的に取り組み、電気窯に木をくべる焼成法にも立ち向かって来たのです。

また釉薬の研究も土灰釉、碧釉、緑釉、銅釉、ガラス釉、鉄釉などに及び、陶肌に温かく、重厚典稚な魅カを添え、又厳粛なる雰囲気、爽やかですがすがしい気分を表現したり、千変万化です。

加飾の技法も、はりつけ、ひっかけ、印華やゴム液などによる版画的手法、木来は染織の技法であるイッチン、三島手、象嵌、かき落とし、削り、化粧など多彩でありますが、一つの技法だけが目立つことがないよう周到に抑制されていますし、巧妙な構図や卓越した装飾文様と一体化されています。年輪を重ねる度に、いまなお若く情熱的な氏の姿が今の作品に表現されています。


明治45年 4月21日京都市東山区五条坂に父新開六郎母あいの長男として生まれる祖父は帝室      技芸員三代清風与平 昭和3年 この頃から伯父四代清風与平の世話で同工房見習となる 昭和5年 京都市立美術工芸学校図案科卒業  同年第11回帝展(第4部美術工芸)に「太白磁比襲飾皿」出品初入選 昭和6年 河村崎山先生主宰の陶芸研究団体『苦玄社』に入会河村崎山先生の指導を受ける 日本工芸会主催:『工芸リ一グ展』に警玄社団体出品参加「染付走狐文飾皿」で 個人賞受賞 第12回帝展(第4部美術工芸)に「染付・けし飾皿」出品入選 昭和7年 河村婚山先生会長の日本陶芸協会の帝展不出品などあり河村蜻山先生も千葉市に ご住居を移され警玄社も自然解散となる 昭和8年 第14回帝展(第4科美術工芸)に「太白磁虫づくし花瓶」出品入選 昭和8年 5代清水六兵衛(六和)先生会長の陶芸研究団体五条会に入会この頃から6代清水 六兵衛先生の指導を受ける 昭和11年 松田改組文展(1月開催)第4科工芸部に「珊瑚餐水注」出品入選 新文展(10月開催)第4科工芸部に「紫姿手付瓶」出品入選 昭和14年 第3回文展(第4科美術工芸)に「赤絵ほほずき画飾鉢」出品入選 サンフランシスコ万国博出陳作品に選抜される 昭和15年 3月日下部丈次郎二女道子と結婚 皇紀二千六百年奉祝展(文展)「蓼画花瓶」出品入選 昭和16年 この頃より松薪など戦時統制により、窯の焼成困難になり制作不能となる 昭和18年 兵役 昭和20年 シベリア抑留 昭和23年 新開邦太郎(本名)を新開寛山の雅号で陶芸制作を再開する 日展(第4科工芸美術)に「西瓜絵花瓶」出品初入選以後連続入選 昭和31年 依囑以後毎年連続出品 昭和24年 1月、京都陶芸クラブ(会長六代清水六兵衛先生副会長森野嘉光・河合栄之両先生) の結成に結成委員をつとめ結成後総務となる 昭和26年 日展(第4科工芸美術)「早春花瓶」出品特選(副賞・朝倉賞)受賞 昭和28年 朝日新聞社主催陶芸展「からたち花瓶」出品賞を受ける 昭和31年 日展委鷹 昭和32年 日展審査員(初)をつとめる 「頌春」(森の啄木)花瓶出品 昭和33年 社団法人日展発足にあたり会員となる 昭和37年 現代工芸美術家協会創立にあたり創立第一回展「群線花瓶」出品会長賞受賞 昭和38年 紺綬褒章を受ける 日展審査員となる「小口瓶」出品 昭和40年 第4回現代工芸審査員となる 「豊円花瓶」出品 昭和41年 社団法人現代工芸美術作家協会の発足にあたり理事をつとめる 昭和42年 日展審査貫となる「黒軸瑞鳥瓶」出品 昭和43年 社団法人日展評議貫となるペルシャ青「烏と丸い実花瓶」出品 昭和49年 日展(第4科工芸美術)に「群韻花瓶」出品文部大臣賞受賞 昭和53年 社団法人現代工芸美術家協会退会 日本新工芸家連盟の発足に盡力す 昭和54年 永年にわたり優れた作家活動を続けると共に京都美術工芸振典に貢献した理由に      より京都府から美術工芸功労者として表彰される 昭和55年 昭和54年制作「玄鳥花瓶」第36回日本芸術院賞受賞 昭和56年 社団法人日展理事となる 昭和57年 社団法人日本新工芸家連盟理事となる 京都市美術館評議員となる 昭和58年 京都市から文化功労者として表彰される 昭和59年 春の叙勲勲四等旭日小授章受賞 平成元年 京都府文化賞特別功労賞を受ける  妻道子没 平成4年 社団法人日展参事、社団法人日本新工芸家連盟顧問 京都工芸美術作家協会顧問を兼任する 平成8年 京都府美山町大野に登窯、築窯「達磨窯」と命する

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