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氏は、昭和19年(1944)に長崎県に生まれる。昭和44年(1969)25歳から実家の窯元にて修業を始め、有田約400年の伝承技術を勉強しつつも、今までの有田(伊万里)にない焼き物を作りたいとの願望を常に抱いていたという。
その間、佐賀県知事賞受賞したり、台湾(桃園市宝山製陶公司)ヘ1年間の披術指導へ渡台した後、昭和50年(31歳)で伊万里市に自分の窯を持つ。10年間伊万里焼の技術の研鑽を重ね、もっと自分の技術世界、精神世界を広めたいと考え、昭和60年(41歳)から、誰もチャレンジしていない純プラチナ彩の研究に没頭する。プラチナという大変高額の材料を焼き物に焼き付けるという技術を確立する迄には、その間失敗の連続であったという。特に花鳥風月のデザインとプラチナ彩の総合的な自己表現を具体化するには、染付の呉須から釉裏紅、青磁釉等々その下絵具を用いて、その上から上絵具を重ね作品に遠近感を出しプラチナ彩特有の輝きと調和をとり、1つの作品という形にするまで、筆舌に尽くしがたい日々の挑戦であったと想像できる。伊万里(有田)の中にだけにいては他の焼き物(京焼を初め、萩、備前、九谷、信楽という各焼き物等)の特性も深く埋解できないし、外から伊万里を見ることにより真の伊万里の姿がわかる、との観点から平成3年琴平に窯を持ち、その後、兵庫県の三田市に窯をもつ。氏の言葉を借りれば、「武者修行の旅」であるとの事。三田市は幻の三田青磁の復元という古三田青磁三田説研究保存会からの要請もあり、自分のブラチナ彩の研究と青磁の組み合わせが氏の表現世界にも意味があったのである。
氏の思いは、伊万里という所に育ち、焼き物に携わり、故郷の山々、季節の流れ、その時々の草花、小鳥のさえずり、川のせせらぎ、そういうすべての自然界が郷愁となり、形となって作品に表現されているのだ。逆に伊万里(有田)に住み、作品を作る作家とは違い、伊万里を離れていたが故にその思いは強く、プラチナ彩と氏の表現する鳥や自然は、心の安らぎ、暖かさ、優しさを感じさせる。氏曰く、「私の作品を見て、心が落ちつき、明日への生命の糧となるものを感じとって頂ければ、私の心は分身(作品)を通して伝わっているのです。」と。プラチナを液体化し、絵の具として便用できるまでには予測できない化学反応をおこし、「試作中に何度も病院のお世話になった。」と今では笑いながら話をされる氏の言葉を聞くとき、その仕事に対する執念を感じずにいられないものがある。
従来、食器及び花瓶などに彩色されている白金は陶器材料店で販売されている白金液が使用されています。プラチナの含有率は数%しか含まない合金であり、そのために長い年月光沢を保つことは難しいと思われます。
上絵をつける陶器は作品によっては数回窯入れを致しますが、白金液を使用する場合、白金の欠点としまして2回以上焼成するとこれまでの輝きが失われます。これは高温の熱によって白金が酸化を起こし変色するものと思われます。
純プラチナ液は販売されていないため、従来販売されている粉末プラチナを使用して焼成してみましたが結果として鉛色した余り美しいものではありませんでした。それで私はプラチナを100%近く使用してプラチナ特有の光沢を出したいと思い、研究の末"純プラチナ彩"を生みだす事が出来ました。私の"純プラチナ彩"は彩色して焼成を行い、その工程を数回繰り返し手間をかけて仕上げています。そうすることによりプラチナの重厚感があらわれ最高の“純プラチナ彩"が仕上がっていると確信致します。
尚、白金彩と私の"純プラチナ彩"の見分け方としては、白金彩の場合どちらかといえば鏡のような黒みがかった光沢ですが私の"純プラチナ彩"は明るい白みがかった光沢であります。
山本一洋昭和19年 長崎県に生まれる 昭和44年 実家の窯元で修業 昭和48年 県知事賞受貫 昭和49年 台湾(桃園市宝山製陶公司)に技術指導のため1年間渡台 昭和50年 伊万里市に築窯 昭和60年 純プラチナ彩の研究に入る 昭和61年 日本の美術展(パリ開催)入賞 昭和62年 日本の美術展(パリ開催)入賞 昭和63年 東京セントラル美術館 日本秀作美術選抜展出品 日本の美術展(パリ開催)入貫 平成元年 大阪府高槻市に移り京都の伝統文化を学ぶ ホテルニューオータニ大阪にて純プラチナ彩陶芸第一回個展 お祭り村美術館所蔵作品を四ヶ年制作 平成 3年 香川県琴平町に築窯 NHK放映「山本一洋 純プラチナ彩の世界」 平成 5年 兵庫県三田市に築窯 平成 7年 NHK放映 平成 9年 飛騨高山 茶の湯美術館所蔵作品を1ヶ年制作 平成12年 檀原神宮 宝物館に尚蔵 総持寺 総本山に尚蔵 平成13年 伊万里市に築窯 平成18年 ニューヨークにて個展開催