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鍋島焼と市川家

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「鍋島」と「市川家」

世界を魅了した「伊万里焼」は、元名二年(一六一六)に有田泉山の地に朝鮮人陶工・李三平が磁器の原料となるカオリン質の高い磁石を発見し、日本初の磁器を製造したことに始まる。有田で焼かれた磁器はそこから約一○キロメートルほど離れた伊万里港で船に荷積みされ、日本だけでなく世界各地へと出荷されていった。この焼き物のことを「伊万里焼」と呼んだ。

十七世紀後半、この伊万里の地は二つの性格をもつ。陶都有田で作られた磁器の国内外向け海上輸送基地と、大川内山の鍋島藩御用窯で焼かれた「鍋島」の生産地である。すでに有田では、民間主導による磁器製造が始まっていた。純白の肌に絵付された器は、その美しさと機能性によって人気を博し、有田が日本唯一の磁器生産地として繁栄すると共に、遠くヨーロッパでも人気を博す。一方、大川内山の鍋島藩御用窯では、徳川将軍家や宮中への献上品、諸大名への贈答品、藩主の城内御用品など、献上を目的とした特別な焼き物が産み出されようとしていた。

当時は、桃山期より引き継ぐ茶道具至上主義の考えが一般的であり、優れた焼物は一国一城と匹敵する時代であった。また、各地の藩が自前の窯を持ち、藩主の趣味から殖産的なものまで各種各様に焼かせるという風潮もあった。その他、有田の独占市場であった磁器産業から得る税収入の増加など、鍋島藩の経済面での躍進もあった。このような理由から、鍋島藩が自藩の威光をかけて焼き物を開発したのは当然のなりゆきであった。

延宝三年(一六七五)、鍋島藩庁は、領内に十三あったという民間窯から優れた陶工を大川内山に集め、藩窯をスタートする。藩という強大な組織のもと、最良の原料、最良の環境、優秀な職人が揃い、良いものを作る条件が揃っていた。また、民間窯で優れた技法が編み出されれば、鍋島の技法として取りこみ、最高の磁器製造技術も大川内に集まっていた。そして、驚くほどの短期間で、有田を凌駕する技術を要するようになる。

一六八○年代、ついに独自の基本構想を固め、献上物の製造が本格化する。初期の鍋島は、中国や有田でも試みられたことのない「表面を念入りに文様で埋め尽くす構図」を主な特徴とした。斬新で献上物の名に恥じない名作であったが、何年も経つとマンネリ化してしまう。そのため、元禄六年(一六九三)に藩庁から厳しい作品への注文がつけられたと文献に記されている。試行錯誤の結果、余白を活かして文様を描いた「中央白抜きの構図」へと大きく変化していった。その余白の取り方は絶妙で、リラックスムードを見る者に与えることを計算して作られている。この境地まで到達できたのは、研ぎすまされて安定した技を持つ鍋島だけであったと言っても過言ではない。ここに、「盛期鍋島」という世界最高峰の磁器が誕生したのであった。

市川家は、その「鍋島」の技術を支えた陶工の血筋を継承する名家である。大川内藩窯の奥、青螺山の麓に安政七年建立の藩祖鍋島直茂公を祭る日峰社があり、その石碑台座に鍋島藩窯に関わった人々の名がしるされている。『藩窯二十四人衆』。それは藩の手厚い庇護の下、鍋島の名品を世に送り出した陶工達の尊称である。その中に御細工人 市川安左衛門、左太夫、重助の三名が記されており、市川家が鍋島藩窯にいかに大きく関わってきたかを示している。

しかし安泰と見えた鍋島藩窯にも大きな転機を向える。明治四年、廃藩置県とともに鍋島藩は消滅、この陶工達は拠所を失ってしまう。この危機的状況の中、市川家の先祖卯兵衛はほそぼそながらも作陶を続け一族秘伝の技術を後世に伝えた。明治十年設立の精功社、昭和の名工市川光春氏、小笠原長春氏の流れがそれである。そして龍仙氏は名門家系の市川姓を襲名、卯兵衛より数えて六代目にあたる。

再現不可能といわれた色鍋島の技術を伝承し、新しい感覚の創作にも意欲を燃やす市川龍仙氏は『平成鍋島』の旗手であり、大川内鍋島の数多い窯の中でも最も注目されている作家である。


昭和27年 佐賀県伊万里市に生まれる 昭和43年 大川内窯元へ絵付師として鍋島焼の製作に従事 昭和63年 独立、龍仙窯を開窯      東京銀座で初個展 平成2 年 通産大臣指定 伝統工芸士として認定 平成5 年 西日本陶芸展入選      九州山口陶芸展入選 平成7 年 六代市川龍仙を襲名

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