陶芸家・ガラス工芸家・人形師など伝統工芸の展示会の情報を発信

人形は土偶・埴輪に象徴されるように、信仰、呪術用具として用いられていたものが、次第に子供の遊び道具となり、更に大人が鑑賞として楽しむものとなった。平安時代には疫病除けの草人形などの簡素なものであったのが、技術の発達により徐々に洗練され、精巧さを増していく。
日本を代表する雛人形、御所人形、嵯峨人形は、当時の工芸技術の粋を集めて作られたものだが、これらは、ほぼ江戸時代までに完成している。江戸時代、日本は武家中心の世の中で、国外とは鎖国体制を敷いていた。三百年の永きにわたったこの状況下において、世界に誇る日本の伝統文化が確立、熟成した時代ともいえよう。人形は、この恩恵を受けたもののひとつである。今日でも見られるような、三月三日の桃の節句、五月五日の端午の節句など、日常生活の中で人形に親しみ、人形を愛するという、日本独自の風俗習慣を育んだ。また、この時代の人形の大きな特徴は、武家政権であったにもかかわらず、意外にも平安時代の王朝の美を理想につくられたという点にある。この時代のあらゆるジャンルの人形は、まず御所の周辺、京都市内で作られ始め、それが各地に普及していくのが通例であった。
雛人形
古代から連綿と続いてきた祓いの人形を祖型として立雛が成立したのは桃山時代頃で、江戸時代の前期には立雛をアレンジした座雛(内裏雛)が作られるようになる。江戸時代中期になると、付属する左大臣、右大臣、三人官女、五人囃子などが登場し、さらに雛道具も加わった。こうした豪華な雛壇飾りは、宮中の儀式や生活から発想され、成立したことは明らかである。当時においても雛人形は人気商品であったとみえ、各時代にさまざまな種類の雛人形が次々と製作され、流行したことで知られている。
嵯峨人形

雛人形より若干古く、嵯峨人形が作られていた。嵯峨人形の詳しい起源については諸説あるが、室町時代の嵯峨人形は、仏師、彫刻師の余技につくられ、専門職ではなかった。人形の呼称は室町時代に登場するが、人形師という専門の職業は、江戸期に入ってのことである。
慶長仏に代表される華やかな色彩の彫刻は、室町時代、蛎の貝殻を砕いて粉にして作られる胡粉が輸入されたからであり、人形にもこの技が十二分に活用された。いずれも木彫で、胡粉下地を厚く作り、金箔を全体に施した後、いわゆる盛り上げ胡粉で銀杏や波などの具象文様を線描きにしてあらわし、その内部に割付文様をつめるように描いていく。さらに線描きで沈んだ部分に緑青や朱などを塗り込める。また地の部分にも同様の絵の具を濃厚に塗り、七宝つなぎなどを金泥描きで加彩する。
御所人形

独特の三頭身を示す円やかな体形にあどけない顔。さわやかな眉に冴え冴えとした目鼻、そして語り掛けるような口元。からだ全体の光沢美しい白色。
御所人形は日本人が稚児の姿に持つ一種の理想美の表れともいえよう。御所人形の特色ある造詣の根元には、平安時代の和様の美意識が深く存在している。参勤交代の折、御所からお土産として渡された人形から、八朔の日に這い這い人形が親王に下賜されたこと等、語源は諸説ある。胡粉を何十層にも塗っては磨いて、という気が遠くなる作業と人形師の心を細筆にこめた顔の表情には人形ファンのみならず時を忘れて見入ってしまう魅力がある。
今日、博多でも江戸時代、木彫で作られた御所人形や嵯峨人形を、博多の土でそれらを再現、表現しようと試みる作家がいる。名もなき先人たちの技に感動し、技術が絶えようとしている現代に、素材を代えながらも胡粉の艶、表情の品格にこだわり、日々研鑚・・・
江戸時代に人々に安らぎと感動を与えた人形を博多の土でよみがえらせたい・・・連綿と続く日本の人形文化は、ここ博多の地にも受け継がれている。