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江戸時代中期以降になると、洛中の公家社会には他に見られない特殊な伊万里の碗・皿類が流通した。これらの食器類は、天皇家が特注し公家や門跡等に下賜した拝領品であったとみられている。その事実は平成七(一九九六)年から京都市埋蔵文化財研究所が、五年の歳月をかけて行った京都御苑内公家屋敷跡の調査発掘によって明らかになった。十六弁菊に桧垣、亀甲文などを配し、裏面には特殊な梅唐草が描かれ、高台に銘が見られない上質の染付磁器三百点以上が出土したのである。佐賀・鍋島藩の文書などによると、天皇家特注の「禁裏御用」の肥前磁器は江戸後期まで辻家が独占していたとあり、今回出土した「菊の御紋」入りの肥前磁器は、辻家の製品であると考えられている。
これら出土した製品を概観すると、高台周辺の削りや呉色の発色などに優れた技法上の特徴を見ることができるだけではなく、文様構成にも共通した特徴が見られる。その特徴は①文様が十六弁の菊花文を基本に檜垣文、亀甲文、松川菱、草木文などの散らし文で構成②高台内が無文で銘款や圏線が入らない③皿文様は見込に円圏の白抜部分を持ち、外面は梅花に特徴のある繋文を描く④碗類は、見込に文様を持たない。平碗類は皿文様と同じく内面に文様があり外面が梅花繋文を描くものや内外面に文様があるものがある⑤碗・皿類が中心で、碗には丸碗・端反碗・嗽碗・平碗などの器形があり同文様の組物がある、などが挙げられ、この共通した文様意匠から十七世紀末から十八世紀初頭のものが最初であることが解る。しかし、十七世紀末から十八世紀初頭の土壙から出土したものは、言わば定型化していない古いタイプのもので、十八世紀前半には規格化され始め、後半にはもっと優れた製品が出土している。また、十七世紀前半代のものは菊花の複弁を円圏に省略するなどすでに規格化された様式のものも多く、この頃までにはいわゆる「一般流通品には無い品格を備え、禁裏御用ならではの優れた陶磁器」=禁裏様式が確立したと考えられている。
十八世紀後半、ちょうど今回出土した公家屋敷跡の肥前磁器が最盛期を迎える頃の安永三(一七七四)年、六代辻喜平次に「常陸大掾」の受領号が下され、同年六月二日条の「泰国院様御年譜地取」にも、京都屋敷の役人が国許に喜平次の一件を報告した件が認められている。この書よると辻喜平次は久世家の家臣を通じ、万里小路大納言に依頼し禁裏へ受領号拝領を願い出、「無滞受領被 仰付、常陸大掾朝臣愛常と口宣伝頂戴仕段」と、朝廷から口宣案を拝領した件が記されている。もっとも「治茂公御年譜」によれば、この件は万里小路家からの依頼で、喜平次は一旦断ったが、禁裏御用を務めるためには無官では差しさわりがあるということで拝領の次第となったとある。しかし、この時期以前から既に辻家は禁裏御用の諸器を製作しており、その縁により受領拝領が認められたとも言われている。そして安永四(一七七五)年十二月条の「泰国院様御年譜地取」には、「禁裏御用焼物納候ニ付」京都聞次所を設置し、「肥前松浦郡有田住 禁裏焼物御用陶器師 辻常陸大掾」の看板を揚げることを願い出たと記されている。また「有田町史 陶業編I」の記録にも、三代喜右衛門(一七一六年没)の頃に「禁裏御用命を蒙りたるは此の代より始まる」とし、以降安永三(一七七四)年には常陸大掾源朝臣愛常の官位を授かり「天盃を賜る」と記されている。
これら考古学的資料や歴史的背景に裏付けられた辻家の磁器は、最も正統的で品格を備えた染付け技法の極地とも言われ、今日では鍋島様式や柿右衛門様式と並ぶ禁裏様式として、約四百年間に及ぶ有田陶磁器の歴史の礎を築き、現在でも皇室からの御下命を賜るなど、日本が世界に誇る「ARITA」を脈々と支え続けているのである。
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