明治期~海を渡ったARITA~

Home > 明治期~海を渡ったARITA~ > 明治期~海を渡ったARITA~

明治期~海を渡ったARITA~

万博花瓶

慶応三年(一八六七)年の大政奉還と王政復古の大号令により、日本が近世幕藩制社会から天皇と中心とした近代中央集権を理想とする国家へと移行したのは翌明治元(一八六八)年のことであった。この新しい国家の成立の時期に十一代目にあたる勝蔵という当家中興の祖が登場する。すでに幕末期に海外輸出を本格化させていた日本は、明治初期以降近代化を果たした欧米列強に追いつくために、新政府の殖産興業政策下で西洋機械の導入による近代産業の育成と海外進出の拡大をめざしていた。そうした中、十一代辻勝蔵は、旧体制からの改革の一環であった明治四(一八七一)年の廃藩置県で、いわば世襲制的に許されてきた官職「常陸大掾」を自ら進んで辞して、爾後新たな時代へ向かって果敢に挑戦していくのであった。 

まず辻勝蔵は、明治八(一八七五)年四月に有田の有力な商工業者であった深川栄左衛門、深海墨之助、手塚亀之助らとともに香蘭社を設立することで、有田の製陶業の近代化を図った。これは伝統技術をもとにした家内工業から資本主義的企業への脱皮を試みたことで、一つの画期を創りだすものであった。それとともに欧米で開催される万国博覧会を通じて新たに有田磁器の海外進出への道を開拓していくことでもあった。まさしくこの香蘭社の設立は、明治九(一八七六)年にアメリカのフィラデルフィアで開催される万国博覧会への出品及び販売計画を進行させる過程で具体化していった。有田磁器の将来を見通した海外輸出への成否をかけた一大事業であった。

この博覧会へ出品するために、政府の信用を取りつける重要な役割を果たしたのが、勝蔵であった。勝蔵は佐賀県令北島秀朝を通して宮内卿徳大寺実則に対して、明治八(一八七五)年四月に香蘭社設立とフィラデルフィア万博への自費出品の二つの願書を提出し許可を得ることに奮励したのであった。当時、日本では会社の設立や博覧会への出品に関しては政府の許可なしに勝手に行うことはできなかったからである。さらにこの会社設立と博覧会への出品に対する勝蔵の熱意を証明するためにも、勝蔵は辻家の特権であった宮内省への御用達についても、香蘭社を通じての調進への移行願いも出したのであった。

名誉之賞 この博覧会へ出品した結果、香蘭社の製品はフランスのセーブルやその他各国の製品を完全に圧倒して、辻勝蔵と深海墨之助の製品が金牌賞を獲得している。特に勝蔵の製品の評価については『米国博覧会報告書』には「珈琲具及ビ皿ハ甚ダ清潔ニシテ其把手ノ透彫」や「透彫ノ茶具其他ノ小器ノ品位高ク最モ手薄キ品ニ巧ナル」とあるように、後述の精磁会社の時代に卓越な評価を受ける珈琲碗セットのモデルをすでに製作していたのであった。

さらに辻家については「辻ハ多年帝家ノ陶師ニシテ禁裏ノ什物ヲ陶成シ最薄質ニシテ光亮アルモノヲ造ルニ巧ナリ」とあるように、江戸期に永年「禁裏御用」への「最薄質」にして「光亮」ある製品の什器を制作してきた「陶師」の家系として、高い評価が与えられていた。この後、香蘭社は明治十(一八七七)年の第一回内国勧業博覧会並びに明治十一(一八七八)年パリの万国博覧会へ出品し、賞牌を受けるとともに有田磁器の真価を国内外へ示したのであった。

しかしながら、この後香蘭社の会社存続の形態上に関して深川栄左衛門と他の社員との意見の一致が見られず、勝蔵は、深海墨之助・竹治兄弟と手塚亀之助に、新たに社員として明治六(一八七三)年のウイーン万国博覧会に有田の代表として参加した経歴を持つ川原忠次郎を加え、明治十二(一八七九)年二月に上幸平の辻家の工場を本社の製造所とし、深海の工場もそこに移して完全合併の形で精磁会社として発足したのである。言い換えればすなわち勝蔵を中心とした精磁会社は、海外への輸出品の大量生産を目的として設立された香蘭社から分離して設立された内外向けの美術工芸品及び高級日用飲食器の製造会社であった。

この会社の海外での主な活動は、言うまでもなく万国博覧会への出品及び販売であり、同社の製品は明治十六(一八八三)年のオランダ万国博覧会や明治二十(一八八七)年のスペイン万国博覧会でも金賞牌を受けている。そしてこれらの大賞を獲得した製品の重要な生産工程である製土掛り、焼き窯掛り、釉薬掛りなど技術部門の主任を勝蔵が務めていたのである。

しかしながら海外への輸出だけでは当社の経営を為していくのは困難であった。むしろ当時精磁会社の経営を支えていたのは海外輸出での販売額ではなく、宮内省や外務省等の政府への国内での販売であった。つまり国内販売の大きな基盤として宮内省の存在があったからこそ精磁会社を設立することができたのであった。そしてその背景に勝蔵の存在があったのである。精磁会社は、江戸期から続く御所と辻家との関係を活用して宮内省への御用品をさらに積極的に調進するようになっていたのである。勝蔵が香蘭社を退社したことによって宮内省への調進は当然精磁会社へ移行されていたのであった。これにより勝蔵を擁する精磁会社は香蘭社に代わって宮内省への御用品を一手に取り扱うようになった。宮内省に対して精磁会社は勝蔵と通して信頼を得ることで、辻家「家伝」の技術を基礎として和食器と洋食器の両方の注文品に見事に応えていったのである。そしてこの信用を足掛かりに政府の各省への販売が可能となったのである。すなわち、精磁会社にとって宮内省への御用品の調進会社の出発点であり経営の基盤だったのである。

さらに明治二十(一八八七)年には川原忠次郎の勧めによってフランスのリモージュから輸入した新式製陶機械を据え付けた新工場を旧工場に隣接する三千坪の辻家の敷地内に建設して、そこを製造・販売の拠点とすることで国内外へ有田磁器の素晴らしさを広げていったのである。

精磁会社の製造・販売の両部門の要が、 地方名望家としての、また有田随一の伝統技術を持つ辻家だったのである。と同時に、外国からいち早く近代窯業技術や企業組織を導入することで、海外の博覧会へ自発的に出品して最高位で入賞し、有田磁器の名声を著しく高めた、その進取の精神と行動力を持っていた人物こそ十一代辻勝蔵であった。この勝蔵の一連の活動が、海外に目を開き、生産、販売、企業組織の全分野にわたって日本の陶磁器業をリードし、江戸期に続き大躍進となった有田磁器の第二の黄金期を支えていたのであった。

シカゴ万博香炉

この頃の辻家が要する磁器製造技術の高さを伝えるものとして、十一代辻勝蔵が明治天皇へ献納した、彫りの技術を駆使した『龍鳳凰彫飾鉢』と『鳳凰文高足香炉』や明治九(一八七六)年のフィラデルフィア万国博覧会へ出品して金牌を戴いた『染錦白鷺文立花瓶』及び明治二十六(一八九三)年のシカゴ万国博覧会への出品作である『金襴手菊花文飾香炉』と『染錦花鳥文様飾皿』がある。これらの五作品は現代になって十四代常喜が見事に復元している。いずれも現代では制作することは不可能に近いといわれており、美術陶器にかける並々ならぬ情熱が伝わってくるようである。


次章:現代~世紀を超えて~
前章:江戸期~禁裏御用窯元として~
十四代 辻常陸トップへ